no.282 問題を解けた感=正解ではなかったのか。

中2ー10、9:45、0ミス(3枚目)

 

3枚目に目安時間を超えてゼロミスで

合格したのは久しぶりだ。

 

昨日も検算と戦っていたのだが、

今、ふと思ったのは

ここ最近、自分の納得感に心を寄せていなかったなぁとも思っている。

 

目安時間を大幅に超えることで

不合格で

できない、自分を目の当たりにしてる。

 

大幅に超える時点で納得はしていないだろうが、

数字にばかり目がいっていたのも事実だ。

 

今日は3回目の正直であり、

無事に合格した。

 

ただ、本来向き合わねばならない問題と向き合っている訳ではない。

そう考えると今まで、時間に間に合わない、なんて問題とちゃんと向き合ったこともがあるだろうか。

 

あるな。小5ー25あたりで。

その時も相当苦戦した。

 

さて、今日は色々と話が変わるが

書きたいことはあるが、

ここ数日で検算について向き合っているが

 

検算自体ってのは

自分自身今まであまりしたことがない。

 

だって自分の中の価値観として

問題を解いた=正解

である。

 

ましてや数学なんて

問題を解いた=正解

なのである。

 

それは論理的な思考というか

2+2=4

と絶対解があるのだ。

2+2=3

なんてことは有りえないのだ。

 

だから

数学ってのは

解いた(解けた感がある)時は

基本的に正解が当たり前なのだ。

 

と前提に思っている自分がいる。

 

 

しかし!

よくよく考えると複雑な問題を解けば解くほど

2+2=3

なんてことをしてることがザラにある。笑

 

つまり

解く=正解 ではないのだ。

いくら論理的に積み上げたとしても

間違えは起こるのだ。

むしろ、それが前提なのだ。

それが前提なのか。。。

 

いま、パラダイムシフトしたような気がする。

だから

間違えが前提にあるから

検算が絶対的に必要なのだ。

 

ある意味、

自分に期待をしない

自分を過大評価せずに

解くのか。

 

絶対解であるが故に

そこは絶対的な根拠と自信を持つ必要がある。

 

なぜなら

絶対解だからだ。

 

2+2=3と間違えてしまって

もはやそれが絶対解の解だと思ってしまったら

絶対解という概念自体が成立しない。

 

それでは数学が成立しなくなるのか。

おしまい