できない日を振り返ると思わぬ副産物。no.147

6-3,8:55,5mis

 

凡ミスというか、え?といったミスが多かった。

それは三日目ぶりのらくだだからなのか、

それは夜にやってるからなのか、

それはこの寒い中帰ってきてすぐにらくだに取り組んだからのか、

 

いや、きっと、ただの計算力不足だろう、と認めざるを得ない。

 

さて、この2日間はらくだをやらなかった。

それはそれでしょうがないとして、

一応振り返ってみよう。

 

火曜日

朝からテスト採点に追われる。

気持ちの余裕がなくて

時間の余裕はあってもらくだに取り掛かろうとは思えなかった。

夜はそのままお疲れモード。

 

水曜日

同じように朝からテスト採点に追われる。

昼の時間はテスト採点により時間がずれ込み、できなかった。

夜はそのままお疲れモード。

 

と、まぁ言い訳を並べてみたが、

意外と面白い発見があった。

 

それは当たり前すぎて意識していなかったけど

らくだをやるためには

時間的な余裕と

気持ち的な余裕がない、と難しいんだな、と感じた。

 

もっと言うと

時間的な余裕があっても、気持ち的な余裕がなければ、取り組めない。

気持ち的な余裕があって、時間的な余裕がなくても、取り組める時はある。

 

自分取扱い書の中では意外な無意識ポイントであったかもしれない。

僕は「気持ち的な余裕」を重視する。

 

みんなそうなのかもしれないけど。

いや、でも、待てよ、

気持ち的な余裕を感じるためには時間的な余裕がないと感じることは出来ないのも確か。

 

あー、待てよ、気持ち的な余裕ってなんだ?

それを問うてみる。

 

気持ち的な余裕とは・・・

to do  がない。不安がない。幸せを感じている。時間がある。結局時間か!?

時間は常にみんなに一律にあるぞ。

あ、そうか!

「何もしなくてもいい」時間がある、それが重要なんだ。きっと。

 

何もしなくていい時間があるから、らくだができる。

らくだは何もしないことを自覚するために

らくだをするのか。

 

何もしなくていい時間があることを意識する。

何もしなくていい時間があるから何かできることに喜びを感じる。

何もしなくていい時間が何でもできる豊かさを生むのかもしれない。

 

たくさんの「したい」ことが生まる中でいかに

「しない」ことを選ぶかが大切な気がする。

おしまい。